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ハリウッド男優伝

大津シネマクラブ 田中 健

24 スペンサー・トレイシー↓

 スターとしての華やかさからは同時代に活躍したゲーブルやクーパーに及ばなかったかもしれないが、万民に愛され俳優仲間から敬愛されたキャラクターは二人を凌駕して余りある。

1900年ウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ。海軍に志願し第1次大戦に出征したあと、カレッジに入り演劇に目覚めた。例に漏れず職を転々としたけれど、結局は天性の才能と言うか、たちまちブロードウェイでも頭角を現し、ハリウッド入り。

どう見たって白塗りの二枚目はできないので、もっぱらタフガイを専門に演じていたようだ。しかし大衆は彼を支持した。巧まざるユーモア、自然な身のこなし、竹を割ったような性格、誠実さが、彼の持ち味だった。しかも卓越した演技力。30年代のハリウッドにあって、彼の人気は一気に上昇し、ゲーブルを越す勢いだった。

本邦お目見えはジョン・フォードの「河上の別荘」(30年)だが、これはフォード作品としては平凡な出来らしく、むしろトレーシーの長編デビュー作であること、また映画出演2本目のハンフリー・ボガードが脇役で出ていると言う店で映画史に名をとどめていると言えなくもない。

その後、30年代の半ばから人気が急騰したようで、クラーク・ゲーブル、ジャネット・マクドナルドと共演した佳作「桑港」(36年)において配役順位第3位でありながら主演オスカーにノミネートされ、大いに注目される。

この勢いに乗って、やはり好調だった名匠ヴィクター・フレミングが「ジャングル・ブック」で知られるノーベル賞作家キップリングの原作を映画化した「われは海の子」(37年)に主演し、今度は見事に主演オスカーを獲得した。

共演はライオネル・バリモア、メルヴィン・ダグラス、チャーリー・グレープウィン、ジョン・キャラダイン、ミッキー・ルーニーと、今思えば芸達者で贅沢な顔ぶれが揃った中での受賞だった。

続くノーマン・タウログの「少年の町」(38年)でもミッキー・ルーニーと再び共演し、孤児の養護施設で悪戦苦闘するフラナガン牧師を好演して2年連続の主演オスカー獲得と言うアカデミー史上初の快挙を成し遂げた。

その後、彼が主演オスカー候補となるのは、可憐なエリザベス・テーラーを嫁に出す父親の喜怒哀楽を好演した「花嫁の父」(50年)、ジョン・スタージェスの異色西部劇「日本人の勲章」(55年)、同じくスタージェスがヘミングウェイを巧みに映像化しトレーシーがほとんど一人で出ずっぱりと言う力作「老人と海」(58年)

人権擁護派弁護士クラレンス・ダロウの進化論裁判を映画化した社会派作品「風の行方」(60年未公開)、国際軍事法廷でナチの戦犯を裁く裁判長を名演した「ニュールンベルグ裁判」(61年)、黒人問題を真正面から扱った名作「招かれざる客」(67年)とギネスものの記録。とくに晩年の3作はいずれも社会派スタンリー・クレマーが監督した。

一方、キャサリン・ヘップバーンとの名コンビは「女性bP」(42年)、「アダム氏とマダム」(49年)などの佳作を送りだした。彼がもう少し長く生きておれば「黄昏」(81年)のヘンリー・フォンダの役はやっぱりトレーシーでないと本当の感じが出ないと思ったのは小生だけだろうか。

親友のハンフリー・ボガードとは「必死の逃亡者」(56年)で共演するはずだったが、俳優順位で両者が譲らず、結局フレデリック・マーチに交代した。こうしたトラブルを繰り返し、一時は制作会社から煙たがられたようだ。

ローレンス・オリヴィエをして「私が最も手本とした俳優はトレーシーだった」と言わしめたスクリーンの名優は「招かれざる客」撮影終了後まもなく、同作で女房を演じたキャサリン・ヘップバーンに看取られながら息を引き取った。

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23 グレゴリ-・ペック↓

 長身痩躯の永遠の二枚目であった。1916年カリフォルニア生まれ。父親を喜ばそうと外科医を志し、サンジェゴ州立大学医学部、カリフォルニア大学バークレー校医学部を卒業するが、医学よりも演劇にひかれてネイバーフッド・プレイハウスに入りブロードウェイに進出した。

この頃、多くの映画スターが第二次世界大戦に応召され、ハリウッドは新たなスターを求めているところだった。彼自身は幸か不幸かスポーツで脊髄をいため、兵役を免れていた。第二次世界大戦も終わりに近づいた44年、ジャック・ターナー監督「栄光の日々」(未公開)で映画デビュー。作品に対する批評はこてんぱんだったが、主演のペックには好意的だった。

続くジョン・M・スタール監督「王国の鍵」(44年)で、彼は早々と主演オスカーにノミネートされる。大型新人の登場だ。ひょろりとした長身の美男スタートしてはゲーリー・クーパーに擬せられ、更に晩年はその威厳と信念を貫くキャラクターからアメリカの良心・モラルを体現する俳優としてヘンリー・フォンダと比較された。

ヒッチコックの「白い恐怖」(45年)はサドゥ−ルの「世界映画史」にかかると「幼稚な精神分裂映画」と手厳しいが、既にスターとしては大成していたイングリッド・バーグマンと競演した。このあたりから、巨匠達のお気に入りとなり、クラレンス・ブラウンの名作「小鹿物語」(46年)でクロード・ジャーマン・ジュニア少年の物わかりのいい父親を好演。

続いてセルズニック製作、キング・ヴィダ−監督の西部劇大作「白昼の決闘」(46年)ではジェニファ・ジョーンズ、ジョセフ・コットンらと共演。新進気鋭のエリア・カザンがユダヤ人問題にメスを入れた問題作「紳士協定」(47年)、再びヒッチコックに起用された「パラダイン夫人の恋」(47年)と注目に値する作品が続く。

ヘンリー・キングが第二次世界大戦の対独戦略爆撃の空中戦を迫力満点に撮った名作「頭上の敵機」(49年)では第8空軍を指揮する准将を演じた。同じくキングがメガホンを握った西部劇「拳銃王」(50年)ではガンファイターに扮してラストで殺されるという役。ラオール・ウォルシュの「艦長ホレーショ」(51年)もまた、極めて男性的な海洋活劇であった。

ヘミングウェイの中編小説をキングが映画化した「キリマンジャロの雪」(52年)はエヴァ・ガードナーを相手に二枚目ぶりを発揮。その極め付きが、ウィリアム・ワイラーの名作「ローマの休日」(53年)である。因みにこの時代、彼はハリウッドを逃れパリに住んでいた。

もっとも、この映画はペックのというよりヘップバーンのための映画であり、事実ワイラーがブロードウェイの舞台を見てヘップバーンを見初めたといわれる。

ジョン・ヒューストンと組んでアメリカの国民文学「白鯨」(56年)を映画化し、自らは製作者であると同時にエイハブ船長を演じた。一部に線が細いペックはミスキャストだとの声もあるが、一方でエイハブの狂気と威厳を見事に表現したとする批評もあり、僕は後者に賛成だ。しかし映画は不入りだったようだ。

ベスト10級西部劇の雄である「大いなる西部」(58年)はウィリアム・ワイラーが監督し、ペック、チャールストン・ヘストン、ジーン・シモンズが共演。大ヒットした「ナバロンの要塞」(61年)を経て、スタンリー・クレイマーの近未来映画の問題作「渚にて」(60年)で好演したあと、ロバート・マリガンの秀作「アラバマ物語」(62年)では南部の黒人差別と戦う良心的弁護士を演じ、ようやくアカデミー主演男優賞を獲得した。

ペックのイメージそのままの役柄であり、いい選考だったと思う。品性と教養を兼ね備えた彼は長く俳優組合の会長を務め、第17代アメリカ・アカデミーの協会長にも選ばれた。

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